多事噪論

 震災後にヤフーで多事噪論http://blogs.yahoo.co.jp/sakaizen_sw42というブログを開設していましたが、しばらく投稿していない間に削除されてしまいましたので、改めてはてなで再開したいと思います。高校の公民科教員としてニュースについて思うことを、中学社会科、高等学校公民科、地理歴史科で扱う範囲内の内容で判断し、思ったこと、感じたことを綴っていきたいと思っています。

消費税減税は高齢者に有利だし、減税や給付はインフレを加速する

 今回の参議院議員選挙は、高校の学習内容レベルからすると、疑問が多かった(もっと深い分析をすれば疑問は解消するかもしれないが、このブログの趣旨は高等学校の公民科で学習するレベルということであるので、そのレベルで疑問をあげていきたい)。ただし、投票日前に高校教員という立場で、政策について論じるのは問題があるとおもっていたので、投票が終わった今、疑問点を2つあげていきたい。

 

●消費税の減税は高齢者優遇なのに、なぜ若者が支持しているのか?

 消費税減税を訴えている政党が多かった。しかも、それを若者が支持しているというか、求めているという報道が多かった。

 消費税は所得に関係なく全国民に一律の税率でかけられる間接税だ。つまり、高齢者でも現役世代でも一律にかけられる。教科書では逆進性について記述しているものが多い。

 では、消費税を減税して、今のままの福祉などの国家予算の規模を維持したら、どうなるのか。減税分を直接税で補うことになることになるだろう。所得税は、年金で生活している高齢者にはあまり課税されないから、現役世代の負担が増すことになる。

 それなのに、なぜ若者が支持しているという報道が多かったのか。それが疑問だ。高齢者優遇政策なのだから、高齢者が支持するのはわかる。それが、若者が支持するというのはどういうことなのか。

 各党の政策をすべて精査したわけではないが、減税を主張した政党が、歳出削減、それもこの予算を削るという具体的な提案をしていた政党はなかったと思う。減税を主張しながら、歳出カットや新たな税源を主張しないのはあまりにも無責任で、責任ある政党とは言えないと思う。

 

●インフレ対策で給付や減税はおかしい

 給付や減税を主張していた政党の根拠はインフレ対策だ。

 しかし、給付にしろ、減税にしろ、効果は同じで、消費の刺激になる。となると、需要が増加するわけで、これは価格を引き上げることになり、給付や減税をすれば、インフレはさらに加速することになる。

 インフレ対策でインフレを加速させてしまうというのは矛盾ではないのか。

 現在のインフレは小麦や原油の輸入価格の上昇によるコストプッシュ型インフレなので、給与を増やして所得を増やすか、円高に誘導して輸入価格をさげるしかない。このような根本的に経済政策では、減税や給付でインフレを加速する政策を主張する政党しかなかったように私には思えた。これはゆゆしきことだ。

 所得倍増計画を主張した池田勇人のような根本的に経済政策を立案できる政治家はいなくなったのか。

日本の問題は東京問題であり、東京は東京だけで問題を解決できない

 今回は、昨年の東京都知事選について考えていきたい。と言っても、当選した小池百合子知事のことでもなく、予想外の苦戦で3位だった蓮舫元議員についてではない。次点に躍進した石丸伸二氏についてだ。それも、石丸現象と呼ばれた熱狂的な支持者の活動についてではなく、安芸高田市長を辞職して、東京都知事に立候補したことの是非についてだ。

 

 一般に、公職は選挙民に付託されて就くものだから、人気を全うせず、辞職するのは望ましくない。ただ、市議会議員が県会議員に立候補したり、県会議員が国会議員に立候補するのは、より高い次元で政治理念を実現しようとしているのだから、批判はおこらないのだろう。

 ただ、広島の市町村長を辞職して、広島県知事に立候補するのならともかく、他の都道府県のしかも地方すら違う東京の都知事に立候補するというのは、理屈が通らないように見える。

 しかし、もしも石丸氏が、安芸高田の問題は東京でないと解決できないと考えたとしたら、安芸高田市長辞職、都知事立候補は正当なものだと言えるだろう。

 

 安芸高田に限らず、日本の地方自治体の抱えている最大の問題は、急激な人口減少だろう。人口減少によって、社会インフラは維持できなくなり、やがては限界集落という問題になる。

 では、人口減少はその自治体だけで解決できるか。それは難しいと言わざるをえない。

 なぜなら、人口減少は人口移動の問題もあるので、移動元の自治体だけの問題だけではなく、移動先の自治体の問題であるからだ。

 では、移動先の自治体とはどこか。それは圧倒的に東京である。

https://www.stat.go.jp/data/idou/2023np/jissu/pdf/youyaku.pdf

 

とすれば、日本全体の地方の問題を解決するためには東京を改革するしかない。

 

 東京が問題なのは、流入人口が多いだけではない。流入した人口が消えてしまうことだ。

 つまり、合計特殊出生率は東京が最低というこだ。

www.mhlw.go.jp

 東京に人口は流入し、東京で消える。ブラックホール自治体と言われる由縁だ。

 

 では、こういう問題は東京は東京だけで解決できるのか。

 小池都政で高校授業料無償化が実現されたが、その効果は限定的と言わざるをえない。なぜなら、東京の高校に通ったり、東京で勤務している世帯は東京に住んでいるとかぎらないからだ。東京に勤務している人は23区だけに住んでいるだけでない。中央線沿線の三多摩だけではない。埼玉や千葉、神奈川から通っている人も多いのだ。現に東京の高校無償化で、同じ高校に通っているのに、東京都の住民の生徒は無償なのに、他県の生徒は有料という不合理なことが起こっていると聞く。

 1人暮らしの時に23区に住んでいても、結婚して、子供を作って、それなりに広い家に住むために引っ越そうとしたら、三多摩ならともかく、埼玉、千葉、神奈川に移り住んだら、東京都の少子化対策から外れてしまうのだ。

 

 つまり、少子化対策を行うのなら、首都圏、少なくても東京圏は一体として行わなければ、効果的とは言えないだろう。

 現在、日本の抱える少子化問題の原因の1つは、東京都に集中した富を東京が23区と三多摩だけに用いて、東京を支えている埼玉都民、千葉都民、神奈川都民に還元してこなかった結果とも言える。

 

 では、どうしたせよいのか。

 

 維新は道州制を打ち出しているが、福島県民からすると道州制は困る。青森から福島までを1つの自治体としてまとめられては、ただでさえ福島県内でも例えば会津から県庁まで移動するのに5、6時間もかかるのに、そこまで広域な自治体では一体のものとして運営するのは難しいだろう。

 広域自治体が必要なのは、東京圏または大阪圏、名古屋圏なのだから、道州制のように大風呂敷を広げず、例えば東京はその通勤圏である埼玉、千葉、神奈川と合併し、東京に集まった富を東京で働いている人に分配し、三多摩に限らない郊外に良好な住宅を提供し、子育て支援を充実させるべきだ。

 というより、すべきだった。東京への人口流入はは高度経済成長の時から続いているだから、その時期から地方の枠を変えていかなかったことが少子化の原因の1つと思う。

 

 少子化こそ日本の主要問題だ。それを政府は外国人労働者で解決しようしているかに思える。

 これは納得できない。日本人が少子化で減少していく中で、外国人を増やしたら、日本人の入れ替えになってしまう。

 国とはもともと部族を守るためのものだったと思っている。民族が消滅して、国だけが残り、経済力が維持されてもなんの意味がないではないか。

 

 合計特殊出生率が高い自治体に地方交付税交付金の配分をあげるなどして、地域ごとに異なる事情に即して、自治体に少子化対策を促すべきだ。

 そして、流入する人口を現在の枠組みだけでは支えきれなくなっている東京は都域を拡大すべきだと思う。

 

 

天皇は皇帝でも王でもない~「女性天皇」を勧告した国連女性差別撤廃委員会は天皇を理解していない

国連委、夫婦同姓義務見直し求める 皇室典範にも言及 - 日本経済新聞

 

 今回は、国連女性差別撤廃委員会が「男系男子の皇位継承女性差別だと」勧告したことについて書く。

 

 前提として、私は天皇(「すめらみこと」と読んでいただきたい。「陛下」という継承は近代的という人口的というか世俗的なので好まない。「すめらみこと」と呼ぶことで敬意を表したい)は、律令憲法以前からの存在であり、大日本国憲法日本国憲法では天皇に元首としての役割を負っていただいているものと考えている。

 天皇の継承は皇族がきめることであり、国民が口を出すべきものではないし、ましてや皇位継承者が絶えていないのに皇位継承の順番を変えようとするのは謀反であるので、皇族を増やす議論はともかく、悠仁様が健在なうちは皇位継承の議論をすべきではないという立場だ。

 

 さて、今回の国連女性差別撤廃委員会の勧告だが、天皇という存在を理解していないのだろうと思う。

 

 天皇は、庶民からのしあがれる皇帝ではないし、軍司令官であるエンペラーではない。ましてや、部族や民族の長である王やキング、レックスではない。

 天皇はそのような世俗的な存在ではない。

 

 神聖な存在であるから、世俗が成り代わることはできない。そんなことをしたら、神聖な存在ではなくなるからだ。

 だから、有史以来、皇室以外の者が天皇になった例はない。これが、天皇が男系でないといけない理由だ。日本を含む東洋やヨーロッパでは男系を同じ一族とする構造をとっているからだ。

 皇室というか天皇家というか天孫の一族以外が天皇になるのはおかありえないし、もしそうなったとしてらそれは神聖性がなくなっているので、天皇とは言えないと思う。

 

 国連女性差別撤廃委員会は天皇を他国の世俗的な皇帝や王と同一と思っているのではないだうか。

 天皇は今では他国には例のない神聖なスピリチュアルな存在なのだ。

 

 霊的な存在とまでは言えないが、たとえばローマ法王を女性にすべきだとか、枢機卿に女性を入れるべきだとか、イスラム法学者に女性がいないのはおかしいとか、国連が勧告するだろうか。

 

 

 

セブン&アイMBOは成功させるべきだ~資本収支の悪化をまねいてはいけない

 セブン&アイ・ホールディングス創業家による自社買収(MBO)について、悪手だとか、大義がないという記事が目立つ。

セブン、創業家提案は「悪手」 ユニゾ破綻が示す“借金買収”の危うさ:日経ビジネス電子版

自社買収問われる「大義」 セブン&アイ、沈黙の創業家 | 日本海新聞 NetNihonkai

 確かに、伊藤家の家業を自分たちのものにしておきたいという株主の利益を無視したわがままに見えないわけではない。ても、私はこのMBOは成功させるべきだし、何なら国をあげて応援すべきだと考えている。

 なぜなら、日本の国際収支は、貿易収支の赤字を資本収支で埋めているものに成っているからだ

令和6年度上期中 国際収支状況(速報)の概要 : 財務省

日本は、現在は貿易で稼いでいる国ではない。日本企業の海外の子会社からの送金で稼いでいる国になっている。

 海外の企業が日本の企業を買収した場合、この資本収支の流れが逆転してしまう。ルノーがNISSANを子会社化していたとき、NISSANからの配当でルノーは潤っていたと聞く。

 トランプ次期大統領が日本製鉄によるUSスチール買収を許さないと発言しているのも理解できることだ。アメリカも現在貿易赤字なので、資本収支まで悪化させたくないというのはうなずけることだ。

 ただ、NISSANやUSスチールのように経営が悪化している企業ならば、救済買収をしてくれるのは国としては悪いことではない。失業率の悪化を防げるし、GDPを下げずにすむからだ。

 しかし、セブンイレブンは日本のコンビニ業界トップ企業であり、破綻しているわけではない。セブン&アイ・ホールディングスがカナダの企業から買収提案を受けているのは、円安のために相対的に株価が低いからだろう。円安でお得だから買いたいというだけだろう。

 このような理由で日本企業が買われ、日本で得た利潤が外国に流れてしまったら、日本の国際収支は将来どうなってしまうだろうか。円安の今だからこそ日本企業の防衛に力を入れなければならない。ニュースによれば、今回は伊藤忠商事メガバンク創業家の支援に乗り出す動きがあるみたいだが、経産省や、財務省、そして政治家も日本企業の防衛のために動くべきだ思う。

立憲共産党はなぜ拒否られるのか

 今の学校では、新教育課程から3年生全員に「政治・経済」を履修させることになった。そこで、現在の3年生は1年生の時に必履修の「公共」を学習し、現在は「政治・経済」を受講している。

 後期になって経済分野の学習に入り、経済体制の講義を終えた。1年生の時に、新自由主義が資本主義り1つの政策だと理解させられなかった生徒がいたことを思い出し、資本主義と板書したのち、集合の円を描き、その中に古典的資本種、修正資本主義、新自由主義と書き込み、その下に「大きな政府」、「小さな政府」と書き込んだ。そして、それとは別に円を描き、社会主義と書き込んだとき、立憲民主党共産党選挙協力が支持されなかった理由がわかった気がした。

 

 立憲民主党自由民主党もそして国民民主党公明党も維新の会も資本主義という枠の中で政策論争をしているはずだ。その中で、「大きな政府」と「小さな政府」という路線の対立がある。自民党の中にも、今回の総裁選を見れば、「大きな政府」「小さな政府」で路線が別れている。

 それなのに、資本主義の枠を超えた社会主義共産主義の体制を目指している共産党と共闘するとしたら、その政党はまるで鵺みたいな存在に思えてしまい、支持はできないだろう

 

 神聖ローマ帝国カトリックプロテスタントとの争いが三十年戦争に発展したとき、プロテスタント側に立って神聖ローマ帝国外からデンマークスウェーデンが参戦した。そしてさらな、カトリックであるはずのフランスがプロテスタント側で参戦した。しかし、これはキリスト教内での争いだ。

 この三十年戦争イスラム教り国がどちらかの側に立って参戦したとしたら、その陣営は市民や貴族から支持されただろうか。

松本人志は勘違いしているのでは

 松本人志代理人弁護士が文藝春秋で被害を訴えていた女性を探偵を使い尾行したり、その女性が相談していた弁護士と交渉したり、脅迫までしたのではという報道がされている。

 

 私は、松本人志側は文藝春秋の意図を勘違いしているのではないかと感じている。

 

 憲法21条に「表現の自由」があるが、「宴のあと」事件や「石に泳ぐ魚」事件で示されたように他人のプライバシーを侵していいわけではない。

 ただし、プライバシーの侵害を上回る公益があれば、報道は許される。

 一連の文藝春秋の報道は、松本人志氏が各地のホテルで開いていた宴会というプライバシーを暴いても、それを上回る公益があると報道したということだろう。

 

 問題は、それを松本人志サイドは、同意のない性行為という時効にはなっているが犯罪行為の暴露だと思っているみたいだということだ。

 だから、告発していた女性の名前を特定しようとしたり、同意があったと確認しようとしたり、もしかするともみ消そうとしているのだろう。

 

 だが、文春の意図は違うのではないだろうか。

 

 高校生が全員履修する科目に「公共」がある。

 そこで高校生は全員カントについても学ぶことになっている。もっとも、倫理では認識論も学ぶことになっているが、「公共」ではカントの道徳論だけを学ぶことになっている。

 カントは、人格を持っている人間には尊厳があるので、手段として扱われてはならず、互いの人格を尊重しあう目的の国を理想としている。

 

 文春の一連の報道によれば、宴会に呼ばれた女性の多くは松本氏が来るとは知らされていなかったらしい。

 しかも、元AV女優の人の松本氏擁護のポストでは友人を参加させたと言っているようだ(もっとも、電話番号すら知らず、SNSで連絡できるだけの関係を友人と言っていいのかどうかは私的には世代間ギャップを感じてしまう)。

 

 友人として呼ばれた、つまり自分を「目的」として呼ばれたと思って言ったら、松本氏の好みの女性として呼ばれただけだった、つまり自分は松本氏を接待する「手段」として呼ばれたに過ぎなかった知ったとき、その場で怒りをぶつけることはなかったにしても、人格は傷つけられ、嫌悪感を感じた参加者はいただろう。

 

 私は週刊誌は買っておらず、文春の記事はネットで読ませいていただいただけではあるが、文春が問題にしているのは、このような宴会自体、つまり参加者の人格を傷つけるような宴会が行われていること、そしてそれが芸人の世界では当たり前になっていること自体のように思える。

 

 人間は手段として求められることはいくらでありうるし、資本主義社会ではそれが一般的だ。

 賃金を得るという手段のために働き、雇用者は労働をしてもらうという手段のために雇う。多くの人間関係は手段でなり立ったいる。だから、労働をしているときに疎外を感じる。

 

 しかし、友人関係ですよよ、友人として、つまりお互いの人格を尊重してつきあいましょうと言っておいて、実は相手のことを手段としてしか扱わないということは、ホワイト化していく現代の日本社会では許されなくなってきているのだろうと、文春の報道から私は感じている。

婚姻はだれの権利を守るためのものか

同性婚不受理は「違憲状態」 福岡地裁判決 賠償請求は棄却 | 毎日新聞

 

 8日に同性婚を認めな現行の婚姻制度を違憲状態とする判決が福岡地裁で出た。これで、地追段階の判決は、意見とするものが2件、違憲状態とするものが2件、合憲が1件と、現行制度を違憲とする判決が多数という結果になった。

 

 憲法24条には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」とある。「両性」というのは男性と女性と解釈するのが順当だろう。ただ、この条文は、戸主の権限が強く、婚姻は戸主の許可が必要だった戦前の家族制度に対するアンチテーゼであり、「両性」よりも「合意のみ」というところにポイントがあるものと思う。

 となると、個人の尊厳や13条の「幸福追求」を優先された判決は妥当のように思える。

 

 しかし一連の判決は、そもそも婚姻とはなにか、だれのどんな権利を守るためのものかという本質的なことを見失っている判決なのではないだろう。

 

 現行制度では、たとえ婚姻していなくても、同棲しても、結婚式をあげても、2人で子どもを育てても問題がない。つまり、異性のカップルであっても同性のカップルであっても2人の愛をばぐくむ幸福追求は、婚姻していても、婚姻していなくても、問題なくできるということだ。

 婚姻は、法的な関係を確定させるだけの問題であり、事実上の生活にはなんら関係がないということになる。げんに異性カップルであっても、事実婚カップルはいるし、夫婦別姓を認めない今の制度では、事実婚を選ばざるをえないカップルは増えて行くであろう。

 

 であれば、婚姻とはだれの権利を守るためのものか。

 それは、歴史的には子供の権利を守るためのものだった。皇室の場合、皇后から産まれた皇子と女御や更衣から踏まれた皇子では皇位継承に差があった。武士でも、正式な結婚で儲けた子供と妾腹の子供とでは相続の順に差があった。

 つまり、歴史的に婚姻は、2人の間に産まれる子供の権利を確定するためのものだったと言える。

 

 であるならば、2人の間に子供が産まれるはずがない同性カップルの婚姻は必要がないと言えよう。

 

 もっとも、平成25年の民法改正によって、嫡出子と非嫡出子の相続は平等になっているので、婚姻は法制度として必要なくなっているのかもしれない。

 また、マイナンバーによって個人の特定ができるのであれば、戸籍の必要もないということになるので、戸籍も戸籍に記載するというだけの制度である法定婚制度も必要のなくなっている制度だと言えよう。

 もっとも、法定婚という制度が必要がないということと、事実上の結婚が必要がないというのは別である。動物だって、結婚という制度はないが、つがいをつくる動物はたくさんいる。婚姻という制度は必要なくなっているが、結婚生活を送るという幸福追求を行うのは、婚姻という制度がにくても支障なく送れる。

 

 逆に、子供にとっては、婚姻という制度がないほうがよくなっているかもしれない・

 現行制度でも、離婚しても養育義務がなくなるわけではないのだが、離婚をして子供と同居しなくなった親が養育費を負担しなくなったという事例はよく聞く。離婚によって婚姻にともなう義務がなくなったということで、子供に対する義務もなくなったと感じてしまうからだろう。婚姻という制度が始めからなければ、離婚ということもないわけで、カップルの関係が破綻していようといまいと子供に対する両親それぞれの義務はかわらないということになる。子供が産まれたときに、マイナンバーに子供の両親に対する情報を記載し、親の個人情報にも子供の情報を記載すれば、結婚していても、していなくても、養育の義務を確定させてしまえば、婚姻という法制度を続ける意味がなくなるだろう。

 

 一連の裁判で異性カップルの訴えていたことは、手術のときの同意や相続で夫婦であるのとないので差があるということだったと聞く。

 しかし、それらは、本来、個人の自己決定に委ねるべきことだ。だれに同意をしてもらい、自分の財産をどうするかは、自分がきめることだろう。

 むしろ、婚姻にともない、子供に関すること以外に、権利、義務が自動的に発生する婚姻制度こそ、改めるべきなのではないたぜろうか。