婚姻はだれの権利を守るためのものか
同性婚不受理は「違憲状態」 福岡地裁判決 賠償請求は棄却 | 毎日新聞
8日に同性婚を認めな現行の婚姻制度を違憲状態とする判決が福岡地裁で出た。これで、地追段階の判決は、意見とするものが2件、違憲状態とするものが2件、合憲が1件と、現行制度を違憲とする判決が多数という結果になった。
憲法24条には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」とある。「両性」というのは男性と女性と解釈するのが順当だろう。ただ、この条文は、戸主の権限が強く、婚姻は戸主の許可が必要だった戦前の家族制度に対するアンチテーゼであり、「両性」よりも「合意のみ」というところにポイントがあるものと思う。
となると、個人の尊厳や13条の「幸福追求」を優先された判決は妥当のように思える。
しかし一連の判決は、そもそも婚姻とはなにか、だれのどんな権利を守るためのものかという本質的なことを見失っている判決なのではないだろう。
現行制度では、たとえ婚姻していなくても、同棲しても、結婚式をあげても、2人で子どもを育てても問題がない。つまり、異性のカップルであっても同性のカップルであっても2人の愛をばぐくむ幸福追求は、婚姻していても、婚姻していなくても、問題なくできるということだ。
婚姻は、法的な関係を確定させるだけの問題であり、事実上の生活にはなんら関係がないということになる。げんに異性カップルであっても、事実婚のカップルはいるし、夫婦別姓を認めない今の制度では、事実婚を選ばざるをえないカップルは増えて行くであろう。
であれば、婚姻とはだれの権利を守るためのものか。
それは、歴史的には子供の権利を守るためのものだった。皇室の場合、皇后から産まれた皇子と女御や更衣から踏まれた皇子では皇位継承に差があった。武士でも、正式な結婚で儲けた子供と妾腹の子供とでは相続の順に差があった。
つまり、歴史的に婚姻は、2人の間に産まれる子供の権利を確定するためのものだったと言える。
であるならば、2人の間に子供が産まれるはずがない同性カップルの婚姻は必要がないと言えよう。
もっとも、平成25年の民法改正によって、嫡出子と非嫡出子の相続は平等になっているので、婚姻は法制度として必要なくなっているのかもしれない。
また、マイナンバーによって個人の特定ができるのであれば、戸籍の必要もないということになるので、戸籍も戸籍に記載するというだけの制度である法定婚制度も必要のなくなっている制度だと言えよう。
もっとも、法定婚という制度が必要がないということと、事実上の結婚が必要がないというのは別である。動物だって、結婚という制度はないが、つがいをつくる動物はたくさんいる。婚姻という制度は必要なくなっているが、結婚生活を送るという幸福追求を行うのは、婚姻という制度がにくても支障なく送れる。
逆に、子供にとっては、婚姻という制度がないほうがよくなっているかもしれない・
現行制度でも、離婚しても養育義務がなくなるわけではないのだが、離婚をして子供と同居しなくなった親が養育費を負担しなくなったという事例はよく聞く。離婚によって婚姻にともなう義務がなくなったということで、子供に対する義務もなくなったと感じてしまうからだろう。婚姻という制度が始めからなければ、離婚ということもないわけで、カップルの関係が破綻していようといまいと子供に対する両親それぞれの義務はかわらないということになる。子供が産まれたときに、マイナンバーに子供の両親に対する情報を記載し、親の個人情報にも子供の情報を記載すれば、結婚していても、していなくても、養育の義務を確定させてしまえば、婚姻という法制度を続ける意味がなくなるだろう。
一連の裁判で異性カップルの訴えていたことは、手術のときの同意や相続で夫婦であるのとないので差があるということだったと聞く。
しかし、それらは、本来、個人の自己決定に委ねるべきことだ。だれに同意をしてもらい、自分の財産をどうするかは、自分がきめることだろう。
むしろ、婚姻にともない、子供に関すること以外に、権利、義務が自動的に発生する婚姻制度こそ、改めるべきなのではないたぜろうか。